被爆体験講話

講話者プロフィール

*被爆時年齢順

尾畑 正勝 (おばた まさかつ)
男性
27歳

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私は当時27歳。三菱造船所幸町工場に勤務していた。爆心地より南に1.5㎞の地点で作業中だった。突然目の前に見た事もない光線がし、とっさに工場の床に腹ばいになると同時に爆発音がした。工場の屋根のスレート瓦が破壊し落下してきた為に背中を少しばかり怪我をした。
外に居た同僚は全身火傷し、3日後に死亡したと聞く。私も外に居たらどうなったかわからなかったと思う。工場内に居た為に助かったと思う。
和田 耕一 (わだ こういち)
男性
18歳

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学徒動員で市内電車の運転手として勤務中、爆心地より3㎞地点で被爆。家屋の下敷きとなったが外傷はない。9日より14日まで、識別困難な同僚の火葬や救援、救護活動に携わる。戦後、同僚117名や、同時に被爆死された多数の乗客の追悼碑を、爆心地公園へ建立する。
築城 昭平 (ついき しょうへい)
男性
18歳

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当時長崎師範学校在学中。(18歳)軍需工場へ学徒動員され、爆心地から1.8kmの学校の寮で、当日の夜勤にそなえ睡眠中に被爆。全身火傷を負う。特に左腕と左足先は重傷だった。
永野 悦子 (ながの えつこ)
女性
16歳

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1945年8月9日、学徒動員として勤務中に、16歳で被爆。自宅は全焼し、戸外にいた9歳の弟は、全身火傷のため、3日後に死亡。自宅で被爆した母と妹は原爆症に苦しみ、母は一命を取り留めたが、13歳の妹は苦しんだあげく、1ヶ月後に死亡。生き残った者たちの、怒り・悲しみ・淋しさを伝えたい。この目で見た原爆の恐怖、そして悲惨さを語ることによって、平和の尊さを訴え続けていきたいと思う。
谷口 稜曄 (たにぐち すみてる)
男性
16歳

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自転車に乗って郵便配達中に、爆心地より1.8㎞の路上で背後から熱線を浴び、背中全面を火傷、1年9ヶ月うつ伏せのまま、死線をさまよう。1949年3月20日病院を退院し、職場に復帰。1955年、いち早く被爆者の会の結成に参加。被爆体験の継承と、核兵器廃絶のため、世界中に出かけている。1986年までNTTに勤務。
現在(公財)長崎平和推進協会継承部会会員、長崎原爆被災者協議会会長
西田 清 (にしだ きよし) ※休止中
男性
16歳

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当時長崎商業学校生徒(16歳)。爆心地から700mの長崎医科大学附属病院本館1階で被爆。爆風で吹き飛ばされ、鉄筋コンクリートの壁で頭部を打ち、意識不明になった。火災による熱風の中を必死になって裏山の金比羅山に逃げた。途中救護所で応急手当を受け帰宅したが、猛火に包まれた被爆の惨状を忘れることは出来ない。
内田 伯 (うちだ つかさ)
男性
16歳

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被爆当時、旧制長崎県立瓊浦中学4年生で、学徒動員先の三菱兵器大橋工場で被爆した。原爆炸裂の瞬間、幾重にも黄色がかった光と衝撃波に襲われて、自らも重傷を負う。また不運にも、爆心地となった松山町に居た家族5人は、骨さえ残さず、燃えつきた。時は移り、1988年7月に米国で開かれた日米学生会議に招かれ、被爆の実相を訴えたが、そこで「テキサス州名誉市民」の証書を授与された。
深堀 讓治 (ふかほり じょうじ)
男性
14歳

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1945年8月9日、原爆が投下されたとき母と中学1年、小学5年の弟2人、それに5歳の妹の4人が、爆心地から約600mのところで被爆し亡くなりました。 国の指導者の一方的なリードで一般国民は大切なことを知らされないまま、戦争に参加し敗戦へと導かれ、大きな犠牲を強いられました。国民は、常に国が暴走しないように、監視を続ける努力が必要です。
早崎 猪之助 (はやさき いのすけ)
男性
14歳

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爆心地より1.1キロメートル三菱兵器製作所大橋工場に勤務中、上司の指示で部品の修理をする別の技術ビルに移動していた時に被爆し、背にした厚い鉄筋コンクリートの柱が生死を分けた。柱が熱線と爆風を遮る壁となり、軽傷で済んだのは奇跡的だった。重機はすべて建物の外に吹き飛ばされ、指示した上司は即死していた。32人中私を含めて2人だけが生き残った。原爆の怖さと平和の大切さを伝えたい。
丸田 和男 (まるた かずお)
男性
13歳

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当時県立瓊浦中学校の1年生(13歳)。爆心地から1.3㎞の銭座町1丁目の自宅で被爆。倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。母死亡。中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。
池田 早苗 (いけだ さなえ)
男性
12歳

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母と郊外の農家へ買出しに行く途中、爆心地から2㎞の屋外で被爆し、軽い火傷を負う。
自宅(800m)で被爆した姉、妹、弟5人は8月19日までに次々と亡くなる。一番下の弟は原爆から一週間の8月15日に亡くなったが、母は寝込み、父も兄弟の看病で手が離せなかったので、私はこの自分の弟を一人で火葬した。このような悲惨なことがないように核兵器の廃絶と平和の尊さを訴えたい。
田川 博康 (たがわ ひろやす)
男性
12歳

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被爆当日は新興善国民学校6年生の12歳。
昭和20年4月の強制疎開後、両親は経営する竹之久保町の工場に住んでいた。私は鳴滝町で被爆。原爆投下を目撃し、至近弾と思い、多少の外傷を受け、両親の救護を待った。
2日後、寧ろ爆心地は浦上方面と知り、悲惨な原爆野を歩き、両親を工場付近の防空壕で救助する。重傷の父と軽傷の母と防空壕に2泊した後、時津に避難した。父は滑石の臨時救護所で手術後、18日に死亡。軽傷の母も22日に一次被害で死亡した。
山田 一美 (やまだ かずみ)
男性
12歳

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爆心地より2.3㎞の路上で被爆。国民学校6年生(12歳)だった。 突如、真夏の太陽より更に明るい閃光に包まれ、ものすごい熱さに死を覚悟したが、幸い岩陰にいたため怪我もなく無事だった。自宅近くの溝に祖母・叔母と家族3人で身を潜めながら、黙々と、破れた衣服で、怪我をして、杖にすがって、同僚の肩を借りて、幽鬼のように歩いて行く被爆者の群れを見ていた。 原爆の無差別性、非人道性を知ってもらいたい。
中村 一俊 (なかむら かずとし)
男性
11歳

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当時、山里国民学校6年生(11歳)。爆心地より1.5㎞の農家で被爆する。屋内にいたため、幸い怪我は免れたが、家の下敷きとなり、辛うじて脱出した。一足先に帰路についた母は途中で被爆、遂に死骸も見つからなかった。自宅は爆心地の近くであったため、弟達4人は爆死した。
私自身も現在まで、入院や体の変調に苦しんできた。 原爆の悲惨さ、戦争の愚かさを若い人に伝えたい。
山脇 佳朗 (やまわき よしろう)
男性
11歳

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爆心地から2.2㎞の自宅で被爆。翌日になっても帰って来ない父を迎えに工場へ行った。工場が爆心地のすぐ側とは知る由もなかった。
浦上川の川べりに人々が折り重なって死んでいた。どの遺体も真っ黒いゴム人形のようにふくれ、皮膚に触れるとペロリと剥けた。私たちは焼け残りの木片を拾い集め、爆死した父の遺体を焼いた。足首を舐めていく炎を見つめていたら、涙があふれた。11歳の夏。
松尾 幸子 (まつお さちこ)
女性
11歳

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国民学校5年生(11歳)の時、爆心地から1.3㎞離れた場所で被爆しました。
私は無傷でしたが、弟達は怪我や火傷を負いました。0.7㎞地点にあった我が家は跡形もなく焼けてしまい、姉の骨だけが出てきました。 倒壊した建物の下敷きになった父は8月28日に亡くなりました。兄2人、姉、兄嫁、叔母2人も亡くなりました。
核兵器の廃絶と平和の尊さをプロジェクターを使いながら伝えていきます。
森田 博滿 (もりた ひろみつ)
男性
10歳

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当時10歳、爆心地から1.8㎞の自宅で被爆。
当番のため学校に出かけた帰り道、後ろで飛行機の轟音がした。振り返ると稲佐山の上に落下傘が見えた。その行方を兄と二人、目で追っていた。先輩が配給を知らせにきたので、父に知らせようと落下傘を見ながら玄関に入った瞬間、電気のスパークのようなオレンジ色の光と爆風に包まれ、家の中に5~6m吹き飛ばされ、気を失った。
「100分の1秒の命」あと一歩遅れていたら私の命は無かった。
下平 作江 (しもひら さくえ)
女性
10歳

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爆心地より800mの防空壕で被爆。母と姉は黒こげになり、兄は3日後に黄色い汚物を吐きながら死にました。私は髪が抜けハグキから血がでて体に斑点ができ苦しみました。二度とこのような苦しみを与えてはなりません。
三瀬 清一朗 (みせ せいいちろう)
男性
10歳

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当時伊良林国民学校5年生(10歳)、爆心地から3.6㎞の屋内で被爆。家族8名は無事だったが、家の中は惨憺たる有様、後片付けに追われた。
数日後、学校が気になり様子を見に行くと、想像を絶する現場。瀕死の人、大火傷でリヤカーで運ばれてくる人、「水を、水を」と叫び、苦しさのあまり「殺してくれ、殺してくれ」の声。救護が間に合わず、次々と亡くなり、校庭で焼かれる様を嫌というほど見せられた。
戦争の悲惨さを伝えていきたい。
末永 浩 (すえなが ひろし)
男性
9歳

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人間と核兵器は共存できない。核兵器を廃絶しなければ、人類滅亡の可能性がある。母と妹二人は長崎市立山で被爆。後で母と妹の一人は死亡。兄と私は諫早に疎開していて、入市被爆。私は国民学校4年。著書「ナガサキから子供たちへ」。「原爆教師まっしぐら」。「私の原爆平和教育」(1~16)。郵政職員から教師となり、平和教育に取り組む。アメリカで被爆を語り、中国の大学で日本語教師をしながら原爆と加害を話す。
峰 徹 (みね とおる)
男性
9歳

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当日母は食料を求めて6㎞先の浦上方面に出かけた。既に父は亡く、平戸小屋町の自宅には私を含めて5人の子供が残った。11時02分、強烈な原爆の爆風で家は半壊し、防空壕に避難した。頼みの綱の母は遂に帰らなかった。母の捜索願いに行った稲佐署は人であふれ居場所もなく、私たちは磨屋国民学校に移送された。教室の床は多くの負傷者が寝かされ、次々と死んでいった。遺体は大八車に積み込まれ運ばれた。悲しい光景だった。平和の尊さを伝えたい。
中川 知昭 (なかがわ ともあき)
男性
9歳

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被爆の時9歳、伊良林国民学校の3年生の私は爆心地から3.3km地点の鳴滝町の自宅で被爆しました。飛来したB29爆撃機2機の内、一機が落としたパラシュートを見て、家の中に駆け込んだので、幸い怪我は無かった。4日後の8月13日に父の爆死した浦上地区に、母と二人で訪れ、原子野を目撃しました。被爆後70余年の歳月が流れた今日、「戦争や原爆の恐ろしさや悲惨さ」を被爆者は、語り継ぐ義務があると思います。
羽田 麗子 (はだ れいこ)
女性
9歳

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長崎市に原子爆弾が投下された時、私は国民学校の3年生でした。自宅は爆心地から2.6㎞離れた所に住んでいましたが、自宅と爆心地の間に山(336m)があったため、無傷の状態で助かりました。しかし翌日からその山を越えて来られた方々は想像を絶する状態で、今でもその時の状況が心の奥深く刻み込まれています。子どもたちに、平和と命の大切さを伝え続けたいと思っています。
森口 貢 (もりぐち みつぎ)
男性
8歳

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1945年7月末から8月初め、家近くの造船所が激しい爆撃を受けた。避難した防空壕近くでも爆発した。ここは危ないとして6年生の姉と1年の弟と3年だった私、子ども3人を母は連れて、8月4日佐賀の田舎に疎開した。5日後原爆が投下された。父の工場は消失し、姉兄は学徒動員中だったが、奇跡的に生き延び、引き返した母と共に私達の所に戻ってきた。20日爆心地を抜けて長崎に戻った。戦争は本当に怖い。平和は尊い。
山川 剛 (やまかわ たけし)
男性
8歳

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私は爆心地から約4㎞の地点で被爆しました。国民学校3年生で8歳でした。左の耳たぶを火で焼かれる熱さで防空壕に飛び込みました。小学校教師としての体験を生かし、将来を担う子どもたちに核兵器廃絶・いのちの尊さ・平和実現への希望を語り続けたいと思います。
奥村 アヤ子 (おくむら あやこ)
女性
8歳

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爆心地に近い城山町(500m)で被爆。一瞬にして9人の家族は引き裂かれ、私は一人ぼっちになってしまいました。このような悲しさと苦しさを次代を担う子どもたちに与えてはならない。そのために核兵器廃絶を願い、訴えています。
計屋 道夫 (はかりや みちお)
男性
8歳

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爆心地から3.8㎞離れた十人町に住んでいて、佐古国民学校の2年生の時、自宅で被爆した。
昭和20年8月9日、前日より友人と浦上川に泳ぎに行く約束をしていたが、当日の朝、親から「学校の宿題をしてから行け」と厳しく言われ、自宅で勉強中、光と爆風を受け、母と兄、私の3名がガラスの破片、家具の倒壊により傷を受けたが、大事なかった。友人は行方不明になった。近所の家は半壊、県庁が三日三晩燃えたのを憶えている。
清野 定廣 (きよの さだひろ)
男性
8歳

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当時8歳、12㎞離れた深堀村の寺で遊んでいる時、爆風にあおられた。これは広島に落とされたピカドンと同じもので恐ろしいものだと解り、兵器工場に動員されていた20歳の姉が無事だったので、私、兄、妹の4人で佐賀県へ疎開した。
爆心地を通り道の尾駅まで歩いた時に見た、残虐極まりない死傷を受けた多くの人達の痛恨の叫びと、無傷だった姉が一週間後、放射能障害を発症して逝った無念な思いを語り続けたい。
池田 松義 (いけだ まつよし)
男性
7歳

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当時、城山国民学校2年生(7歳)。爆心地から700mで被爆。家族は両親と曾祖母、私、父の親戚3人の7人で暮らしていたが、私一人が生き残り、6人が相次いで亡くなった。特に父、曾祖母、母が次々と亡くなり、当時7歳だった私が3人を焼いた様子を、今も忘れることが出来ない。
家族全てを亡くし、戦後の混乱の中を行きぬき、今も放射線の恐怖に怯えて暮らす日々の中で、平和の尊さを訴え続けていきたい。。
安井 幸子 (やすい さちこ) ※休止中
女性
6歳

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爆心地より900mの自宅前で6歳の時被爆。熱線・放射能・爆風の恐怖と苦しみの中で4人の兄弟全てを亡くした。被爆の実相を知り平和の尊さを心に刻んで下さい。
原田 美智子 (はらだ みちこ)
女性
6歳

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私は6歳の時、爆心地から4㎞の屋外で被爆。爆風により割れたガラスで負傷しました。街全体が燃えていく様子が脳裏に焼きついています。祖父は被爆して3年後ガンで死亡。父は爆心地地帯を通り、残留放射線を浴び、原爆症で死亡。母は放射性大腸炎で死亡。母の胎内で被爆した弟は3歳で死亡。私は13年間被爆者の健康診断に携わる仕事をし、放射能障害で苦しんでいる被爆者を見て来ました。平和な世の中を願って、原爆の悲惨さを伝えています。
八木 道子 (やぎ みちこ)
女性
6歳

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爆心地から3.3㎞の鳴滝町で被爆、当時小学1年生(6歳)。家には兄姉弟の5人だけだった。
一瞬にして聞こえなくなった蝉の声、異様な空の色、やけどを負った身体に湧く無数のうじ虫と異臭は、今もはっきり記憶にある。
最後に勤務した城山小学校では、1400名余の児童と先生方が命を失くした。 「戦争は最大の差別」という。平和とはどういうことをいうのか、考えていきたい。
池田 道明 (いけだ みちあき)
男性
6歳

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私は国民学校1年生の時、長崎医科大学附属医院で被爆。火炎の中、坂本町から穴弘法さんを経て金毘羅山の高射砲陣地まで逃げ延びそこで1泊。翌10日朝、勝山国民学校へ下り、小川町、駅前、銭座町、岩川町から大学病院へと辿り着き母と再会という行程の中で、眼にし耳にした様々な事を思いおこす時、斯様な惨劇を繰り返してはならない。この願いを次世代へ語り継ぐ事こそ、九死に一生を得た私に課せられた使命だと思っています。
小西 伸一 (こにし しんいち)
男性
6歳

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ピカッ・ドーン。目を射る閃光と天地を揺るがす大音響の火の玉の炸裂だった。6歳の私は爆心地から4kmにある大浦天主堂の白衣の聖母像の前にいた。初聖体を受けるための教会学校の帰りだった。爆風のショックで尻もちをついた私の頭にガラスの破片が降り注ぎ、後頭部に怪我をした。
5日後には兵器工場で亡くなった19歳の叔母さんの葬式があり、大浦から北に7kmの阿蘇墓地への廃墟と化した原子野はまさに地獄図だった。
城臺 美彌子 (じょうだい みやこ)
女性
6歳

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当時6歳。爆心地より2.4㎞離れた山陰の立山町で被爆した。自宅内に居た事で外傷もなく、落ち込んだ床下から助け出された。その後、金比羅山中腹にあった防空壕で数日過ごし、旧市内が真っ赤に焼けていくのを見た。翌日、敵機が頭上をぐるぐると低空飛行し、恐ろしい記憶として残っているが、後日、被爆後の長崎を偵察にきたと知る。教職在職中、戦争や原爆について充分に伝えられなかったので、今「長崎を最後の被爆地に」と語っている。
木口 久 (きぐち ひさし)
男性
5歳

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落下中心地より2.5km離れた大鳥町で被爆。5歳でした。 母は浦上に食糧の買い出しで被爆死。残された5人の子供は屋内で無事。ピカドン、原爆機を見たこと、家の屋根半壊その震動のすごさに兄弟固まって泣いた。体験はそのくらいですが、原爆の怖さ、戦争の愚かさはわかりますのですべての人と連携し連動し、平和推進のために結集していきたいと思っています。
一緒になって考え、英に集い、永遠の平和を希望してその為の柱石になりたい。
吉田 勲 (よしだ いさお)
男性
4歳

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爆心地より3.9㎞離れた自宅で被爆しました。家の横の共同井戸で洗濯している祖母を見ていました。突然、祖母に大きな声で「敵機が飛びよるけん、家の中に入らんね!」と言われ、裏口から家に入った直後、窓の外が一瞬オレンジ色に光りました。
被爆後48年間は、誰にも話をしませんでしたが、今は核実験に抗議する座り込みや、修学旅行生に被爆遺構巡りの案内等で核兵器廃絶を真剣に訴えています。
小峰 秀孝 (こみね ひでたか)
男性
4歳

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当時4歳8ヶ月、爆心地より1.5kmの自宅近くの畑で被爆、両手、両足、腹を火傷し足は3回手術を受ける。
「戦争や原爆の恐ろしさを次の世代に伝えていくことが被爆者の役目」と現在語り部として活動している。
伊藤 武治 (いとう たけはる)
4歳

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爆心地より3.8㎞、唐人屋敷の天后堂より30m位下で被爆。しかし、当時4歳の私は戦争が何かも判らず、恐いとも思わず、原爆で亡くなった人でも、汚れたおじさん達が寝ているぐらいに感じていた。成長していくにつれ、大変な時代だったことを知る。
8人兄弟それぞれの体験や、伯父一家全滅で、私が遺族代表になっていたことを、若い人達に知ってもらい、人間として、今後どう生きていくべきかを考えてほしい。
三田村 静子 (みたむら しずこ)
女性
3歳

プロフィール >>
3歳8ヶ月の時、爆心地より4㎞の福田の自宅縁側で、兄と2人の姉の4人で食事中に被爆。その時、放射性降下物と思われる灰がご飯の上に降りかかり、それを食べてしまった。
後年、2人の姉がガンを発病し、一人は死亡。私も二度ガンを患うなど体の変調に苦しんできた。
現在、被爆者の体験を紙芝居にして学校等で上演し、原爆の悲惨さ、愚かさの継承に努めている。これからも核兵器廃絶と、平和と命の尊さを若い人に訴えていきたい。
松本 美都恵 (まつもと みとえ)
女性
3歳

プロフィール >>
自宅は爆心地から2.1㎞の西坂町にありましたが、その日は朝から母におんぶされて疎開先に決まっていた長与(爆心地から4㎞)に向かいました。
母の背中から下りたその時、強烈なオレンジ色の光が辺りを照らしました。両親や私は無事でしたが、同居していた叔母は行方不明のままです。
3歳だったので記憶は途切れ途切れですが、あの光を見た者として、伝えなければと思っています。
内野 節雄 (うちの せつお)
男性
1歳

プロフィール >>
爆心地より約1.8㎞の御船蔵町の防空壕に一人寝かされていました。当時1.9歳で記憶にありませんが、子供の頃から8月9日になると、父母が当時の状況を良く話してくれました。
母は大手術を数回、入退院を繰り返し、54歳で死亡。妹も34歳の若さで死亡。父も身体にケロイドを負い、88歳で死ぬまで消えなかった。
戦争も無い、核兵器も無い、平和な世界が如何に大切かを若い世代の方々に語り継いで行きたい。
吉山 秀子 | 女性 | 被爆当時22歳
平成20年1月31日、ご逝去されました。

谷口 恵美 | 女性 | 被爆当時22歳
平成24年8月8日、ご逝去されました。

笹尾 昭 | 男性 | 被爆当時18歳
平成20年7月25日、ご逝去されました。

吉田 孝子 | 女性 | 被爆当時18歳
平成20年6月23日、ご逝去されました。

室園 久信 | 男性 | 被爆当時18歳
平成23年2月1日、ご逝去されました。

﨑田 昭夫 | 男性 | 被爆当時16歳
平成24年2月8日、ご逝去されました。

廣瀬 方人 | 男性 | 被爆当時15歳
平成28年1月13日、ご逝去されました。

濱崎 均 | 男性 | 被爆当時14歳
平成24年2月2日、ご逝去されました。

松添 博 | 男性 | 被爆当時14歳
平成26年4月13日、ご逝去されました。

森 幸男 | 男性 | 被爆当時14歳
平成22年3月17日、ご逝去されました。

吉田 勝二 | 男性 | 被爆当時13歳
平成22年4月1日、ご逝去されました。

渡邉 司 | 男性 | 被爆当時13歳
平成23年8月31日、ご逝去されました。

出口 輝夫 | 男性 | 被爆当時9歳
平成23年10月7日、ご逝去されました。

原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、歴史に学んで、
核兵器のない恒久平和の世界を築くことを誓う。

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