家族証言者プロフィール

井石 昭子 (いせき あきこ)
被爆者:小泉政利(父)

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爆心地から約1kmの勤務先(商業学校)で被爆した父、小泉政利(2002年ご逝去)の被爆体験を話す。 父は被爆当時30代後半で、英語教師であったが、戦時中は非国民と言われたため、日本史の教師をしていた。 爆風で防空壕に飛ばされたことが幸いし、また家族も疎開していたため、家族全員助かった。 戦後は、進駐軍の要請で通訳をおこなっていた。

柿田 富美枝 (かきた ふみえ)
被爆者:母、山口仙二(上司)、谷口稜曄(上司)

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爆心地から約3kmの勤務先(公会堂・市職員)で被爆した母と、講話者の上司であった山口仙二さん(2013年ご逝去)、谷口稜曄さん(2017年ご逝去、長崎原爆被災者協議会前会長)の被爆体験を話す。 母は被爆当時21歳で、被爆の急性症状に苦しんだ。また、多くの友人を失くした。 山口さんは被爆当時14歳で、学徒動員中に爆心地から約1.3 kmの三菱兵器製作所大橋工場で被爆し、全身と顔に大やけどを負い、谷口さんは被爆当時16歳で、郵便配達中に爆心地から約1.8kmの場所で被爆。背中に大やけどを負い、1年9ヶ月の間うつ伏せのまま寝たきりだった。

佐藤 直子 (さとう なおこ)
被爆者:池田早苗(父)

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爆心地から約2kmの場所で被爆した父、池田早苗さんの被爆体験を話す。 父は被爆当時12歳で、母親と買い出しに出かけていたときに被爆した。 自宅は爆心地から800mのところにあり、原爆で姉・妹・弟ら5人を亡くし、その後両親も死亡した。また、一番下の弟をひとりで火葬した。

永井 徳三郎 (ながい とくさぶろう)
被爆者:永井隆(祖父)、永井誠一(父)

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爆心地から約700mの長崎医科大学研究室で被爆した祖父、永井隆さん(1951年ご逝去)と、当時10歳だった父、永井誠一さんの被爆体験を話す。 祖父は被爆当時37歳であった。自身も大けがを負いながら、三山町木場に救護所を開設し原爆傷病者の救護にあたる。 祖父の妻・緑は原爆により自宅の台所で亡くなった。1949年12月 長崎市名誉市民となった。

原田 小鈴 (はらだ こすず)
被爆者:山口彊(祖父)

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祖父 山口彊(1916~2010)は、ヒロシマ・ナガサキで被爆した二重被爆者 2011年より祖父の被爆体験と非核平和の継承を紙芝居(子供用・大人用)やドキュメンタリー映像・著作の朗読を用いて次世代に語り継ぐ被爆三世。 被爆者(故山口彊)・二世(母)・三世・四世(息子)四世代に渡り国内外で継承活動を行っている。国内外の活動や交流を通して得た、被爆者家族の体験や次世代継承への想いも併せて語る。
記録映画:「二重被爆~語り部山口彊の遺言」2011年公開、「ヒロシマナガサキ最後の二重被爆者」2019年公開(4世代の継承活動)
※山口彊氏の被爆体験については、山﨑年子氏(原田氏の母)のプロフィールをご参照ください。

山﨑 年子 (やまさき としこ)
被爆者:山口彊(父)

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(被爆三世 原田小鈴(子)と共に講話可)
広島と長崎で被爆した二重被爆者である父、長崎で被爆した母・兄の被爆体験と被爆者家族と共に生きてきた体験を被爆二世からの視点で語る。 父は、8月6日出張していた広島市で通勤途中に江波町(3㎞)にて被爆。翌日、避難列車で己斐駅から長崎へ戻る。8月9日長崎三菱造船所(3.5㎞)で二度目の被爆。 二度の直接被爆が初めて公式に認定された被爆者である。戦後は、アメリカ軍の通訳、英語の教師、三菱造船に復職。 90歳でニューヨーク国連本部とコロンビア大学で核廃絶を訴えた。 亡くなる13日前、米国の映画監督ジェームズ・キャメロン監督が病室を訪問。監督に「私の役目は終わった。後はあなたに託す。」と語った。
【参考】山口彊氏の被爆体験に関する書籍:「生かされている命」(講談社)「ヒロシマ・ナガサキ二重被爆」(朝日文庫)

平田 周 (ひらた しゅう)
被爆者:松尾敦之(祖父)

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爆心地から約3kmの勤務先で被爆した祖父、松尾敦之さん(1983年ご逝去)と、母の平田みち子さん(1985年ご逝去)の被爆体験を話す。 祖父は被爆当時41歳で、勤務先で被爆したが、爆心地から約700mの自宅にいた妻と3人の子を亡くす。 原爆の悲惨さを詠んだ句集と日記を遺している。 平田みち子さんは被爆当時15歳で、学徒報国隊の作業中に爆心地から約1.4kmの茂里町兵器工場で被爆した。両腕に大やけど負い、垂れ下がった皮膚を自分で引きちぎり工場から逃げた。

三根 礼華 (みね あやか)
被爆者:細田ウメ子(祖母)

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爆心地から約2kmの畑で被爆した祖母、細田ウメ子さんの被爆体験を話す。 祖母は被爆当時23歳で、家は全焼し、飼っていた牛は2週間後に死んだ。 畑や田んぼで作業をしていた人が、防空壕や井戸の中で亡くなっていた。 終戦後、小さな防空壕で生活しており、食料や物品の不足に苦しんだ。

森田 孝子 (もりた たかこ)
被爆者:父、母、宮崎幸子(知人)

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父と母、そして講話者の知人の宮崎幸子さんの被爆体験を話す。 宮崎さんは、被爆当時15歳で、初恋の人が爆心地から1.5㎞の所にある兵器工場で被爆し亡くなった。 本人とはわからないほどに姿は変わり果て、父親が荼毘にふした。 その時父親が、「一人では行かせん」と火の中に飛び込もうとした光景を見て、怖くて逃げだした。

沖西 慶子 (おきにし けいこ)
被爆者:沖西素子(母)

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母、沖西素子さんの被爆体験を話す。 母は被爆当時10歳で、同居していたいとこの忠三さん(当時17歳)は、動員先の兵器製作所で死亡。 その後3日間遺体を探すも見つからなかった。終戦後、忠三さんが好きだった歌を歌うと伯母に厳しく叱られた。
◆講話の中では、戦時中に学生たちが歌っていた曲や平和を願う曲をビオラで紹介する。

原田 真美 (はらだ まみ)
被爆者:原田妙子(義母)

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爆心地から1.2kmの茂里町の兵器工場で被爆した義母、原田妙子さんの被爆体験を話す。 義母は被爆当時15歳で、茂里町の兵器工場で学徒動員中に被爆。両隣で作業していた女工は亡くなっていた。 翌日、被爆後の混乱した状態の中、偶然出会った中高年の男性を頼り、無事に家にたどり着いた。 再開した学校では多くの学友が亡くなり、卒業を迎えられた者はわずかであった。
◆2017年度に、原田氏の知人がイラストを担当して制作した紙芝居は、現在長崎市内の図書館で貸出しが可能。

大越 富子 (おおごし とみこ)
被爆者:田中竹一(父)、サザ子(母)

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父、田中竹一さんと、母、サザ子さんの被爆体験を話す。 父は被爆当時44歳で、佐世保の海兵団に所属しており、がれきなどの撤去作業のために長崎市に入った。 被爆から12年後に、肝臓がんで亡くなる。 母は当時38歳で、9日、疎開先の時津村にて、原爆投下後に近くの国民学校へ運び込まれた被爆者の救護にあたった。

谷口 須賀子 (たにぐち すがこ)
被爆者:山本ハル(母)、和俊(父)

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爆心地から約3.1キロの三川町で被爆した母と、爆心地から約2キロの八千代町で被爆した父の被爆体験を話す。 当時、母は、爆心地からわずか約1キロの竹の久保にある看護学校の寮で暮らしていたが、8月9日は三川町の実家にいたため助かった。前日、母は祖母と一緒に野菜を売りに行く約束をしていたが、9日になってどうしても行く気になれず断り、祖母は一人で出かけた。「そしたら何か土産を買ってくるね。」と言った言葉が祖母の最後の言葉となった。

野田 隆喜 (のだ たかよし)
被爆者:野田和良(父)

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爆心地から1.3㎞の浦上町の自宅で被爆した父、野田和良さん(被爆当時15歳)の被爆体験を話す。家族5人が全員被爆し、祖父、叔父、叔母の3人が亡くなった。父は、当時13歳の叔父と、焼け野原に落ちていた「来たれ炭鉱飯塚、飯はある」とかいてあったチラシ頼りに、福岡県の飯塚へ。 その後も、人には言えない苦労と病による入退院の繰り返しだった。父からきちんと原爆の話を聴けたのは、被爆から50年後、父と長崎への里帰りのときだった。

近江 義則 (おうみ よしのり)
被爆者:近江 時義(父)

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父、近江 時義さんの被爆体験を話す。父は当時18歳で、8月9日は、爆心地から約10キロの戸石村で防空壕堀りをしていた。 原爆投下後、爆心地から約500mの竹ノ久保町にある実家に急ぎ向かった。やっとの思いでたどり着いた家は瓦礫の山だった。瓦礫から這い出てきた祖父に会うことができたが、祖父は8月18日に容体が急変し亡くなった。 たった一発の原子爆弾で父の弟を除く全ての肉親を失ってしまった。 戦後の父の半生も、原爆に翻弄されるものだったが、父は懸命に生きることを身をもって教えてくれた人だった。

調 仁美 (しらべ ひとみ)
被爆者:調 来助(義祖父)

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義理の祖父、調来助さんの被爆体験を話す。義祖父(当時46歳)は爆心地より0.7㎞の長崎医科大学付属医院で被爆。翌日から被爆者の治療に当たった。医師として記録を第一に考え、1945年10月から12月にかけて被爆者5,000人以上から聞き取り調査を行い、長年原爆後障害の研究に尽力した。
工場で勤務中だった長男、医学部生で授業中だった次男が亡くなった時の様子など、8月9日から約2カ月半を記録した「原爆被災復興日誌」を残した。