家族・交流証言講話

家族・交流証言者とは

家族証言者

ご家族の被爆体験や思いをお話します。
被爆者を身近で見てきた家族として、被爆体験を語り継ぎます。

家族証言者

交流証言者

被爆体験を受け継いでいきたいという意思をもった方が、交流を深めた被爆者の体験や思いを語ります。

交流証言者

 

家族証言者プロフィール

*( )は講話者と被爆者の続柄

井石 昭子 (いせき あきこ)
被爆者:小泉政利(父)
 

講話内容 >>
爆心地から約1kmの勤務先(商業学校)で被爆した父、小泉政利(2002年ご逝去)の被爆体験を話す。 父は被爆当時30代後半で、英語教師であったが、戦時中は非国民と言われたため、日本史の教師をしていた。 爆風で防空壕に飛ばされたことが幸いし、また家族も疎開していたため、家族全員助かった。 戦後は、進駐軍の要請で通訳をおこなっていた。
柿田 富美枝 (かきた ふみえ)
被爆者:母、
山口仙二(上司)、谷口稜曄(上司)

講話内容 >>
爆心地から約3kmの勤務先(公会堂・市職員)で被爆した母と、講話者の上司であった山口仙二さん(2013年ご逝去)、谷口稜曄さん(2017年ご逝去、長崎原爆被災者協議会前会長)の被爆体験を話す。 母は被爆当時21歳で、被爆の急性症状に苦しんだ。また、多くの友人を失くした。 山口さんは被爆当時14歳で、学徒動員中に爆心地から約1.3 kmの三菱兵器製作所大橋工場で被爆し、全身と顔に大やけどを負い、谷口さんは被爆当時16歳で、郵便配達中に爆心地から約1.8kmの場所で被爆。背中に大やけどを負い、1年9ヶ月の間うつ伏せのまま寝たきりだった。
佐藤 直子 (さとう なおこ)
被爆者:池田早苗(父)
 

講話内容 >>
爆心地から約2kmの場所で被爆した父、池田早苗さんの被爆体験を話す。 父は被爆当時12歳で、母親と買い出しに出かけていたときに被爆した。 自宅は爆心地から800mのところにあり、原爆で姉・妹・弟ら5人を亡くし、その後両親も死亡した。また、一番下の弟をひとりで火葬した。
永井 徳三郎 (ながい とくさぶろう)
被爆者:永井隆(祖父)、
永井誠一(父)

講話内容 >>
爆心地から約700mの長崎医科大学研究室で被爆した祖父、永井隆さん(1951年ご逝去)と、当時10歳だった父、永井誠一さんの被爆体験を話す。 祖父は被爆当時37歳であった。自身も大けがを負いながら、三山町木場に救護所を開設し原爆傷病者の救護にあたる。 祖父の妻・緑は原爆により自宅の台所で亡くなった。1949年12月 長崎市名誉市民となった。
原田 小鈴 (はらだ こすず)
被爆者:山口彊(祖父)

講話内容 >>
祖父 山口彊(1916~2010)は、ヒロシマ・ナガサキで被爆した二重被爆者 2011年より祖父の被爆体験と非核平和の継承を紙芝居(子供用・大人用)やドキュメンタリー映像・著作の朗読を用いて次世代に語り継ぐ被爆三世。 被爆者(故山口彊)・二世(母)・三世・四世(息子)四世代に渡り国内外で継承活動を行っている。国内外の活動や交流を通して得た、被爆者家族の体験や次世代継承への想いも併せて語る。
記録映画:「二重被爆~語り部山口彊の遺言」2011年公開、「ヒロシマナガサキ最後の二重被爆者」2019年公開(4世代の継承活動)
※山口彊氏の被爆体験については、山﨑年子氏(原田氏の母)のプロフィールをご参照ください。
山﨑 年子 (やまさき としこ)
被爆者:山口彊(父)

講話内容 >>
(被爆三世 原田小鈴(子)と共に講話可)
広島と長崎で被爆した二重被爆者である父、長崎で被爆した母・兄の被爆体験と被爆者家族と共に生きてきた体験を被爆二世からの視点で語る。 父は、8月6日出張していた広島市(3㎞)で通勤途中に江波町にて被爆。翌日、避難列車で己斐駅から長崎へ戻る。8月9日長崎三菱造船所(3.5㎞)で二度目の被爆。 二度の直接被爆が初めて公式に認定された被爆者である。戦後は、アメリカ軍の通訳、英語の教師、三菱造船に復職。 90歳でニューヨーク国連本部とコロンビア大学で核廃絶を訴えた。 亡くなる13日前、米国の映画監督ジェームズ・キャメロン監督が病室を訪問。監督に「私の役目は終わった。後はあなたに託す。」と語った。
【参考】山口彊氏の被爆体験に関する書籍:「生かされている命」(講談社)「ヒロシマ・ナガサキ二重被爆」(朝日文庫)
平田 周 (ひらた しゅう)
被爆者:松尾敦之(祖父)

講話内容 >>
爆心地から約3kmの勤務先で被爆した祖父、松尾敦之さん(1983年ご逝去)と、母の平田みち子さん(1985年ご逝去)の被爆体験を話す。 祖父は被爆当時41歳で、勤務先で被爆したが、爆心地から約700mの自宅にいた妻と3人の子を亡くす。 原爆の悲惨さを詠んだ句集と日記を遺している。 平田みち子さんは被爆当時15歳で、学徒報国隊の作業中に爆心地から約1.4kmの茂里町兵器工場で被爆した。両腕に大やけど負い、垂れ下がった皮膚を自分で引きちぎり工場から逃げた。
三根 礼華 (みね あやか)
被爆者:細田ウメ子(祖母)

講話内容 >>
爆心地から約2kmの畑で被爆した祖母、細田ウメ子さんの被爆体験を話す。 祖母は被爆当時23歳で、家は全焼し、飼っていた牛は2週間後に死んだ。 畑や田んぼで作業をしていた人が、防空壕や井戸の中で亡くなっていた。 終戦後、小さな防空壕で生活しており、食料や物品の不足に苦しんだ。
森田 孝子 (もりた たかこ)
被爆者:父、母、宮崎幸子(知人)

講話内容 >>
父と母、そして講話者の知人の宮崎幸子さんの被爆体験を話す。 宮崎さんは、被爆当時15歳で、初恋の人が爆心地から1.5㎞の所にある兵器工場で被爆し亡くなった。 本人とはわからないほどに姿は変わり果て、父親が荼毘にふした。 その時父親が、「一人では行かせん」と火の中に飛び込もうとした光景を見て、怖くて逃げだした。
沖西 慶子 (おきにし けいこ)
被爆者:沖西素子(母)

講話内容 >>
母、沖西素子さんの被爆体験を話す。 母は被爆当時10歳で、同居していたいとこの忠三さん(当時17歳)は、動員先の兵器製作所で死亡。 その後3日間遺体を探すも見つからなかった。終戦後、忠三さんが好きだった歌を歌うと伯母に厳しく叱られた。
◆講話の中では、戦時中に学生たちが歌っていた曲や平和を願う曲をビオラで紹介する。
原田 真美 (はらだ まみ)
被爆者:原田妙子(義母)

講話内容 >>
爆心地から1.2kmの茂里町の兵器工場で被爆した義母、原田妙子さんの被爆体験を話す。 義母は被爆当時15歳で、茂里町の兵器工場で学徒動員中に被爆。両隣で作業していた女工は亡くなっていた。 翌日、被爆後の混乱した状態の中、偶然出会った中高年の男性を頼り、無事に家にたどり着いた。 再開した学校では多くの学友が亡くなり、卒業を迎えられた者はわずかであった。
◆2017年度に、原田氏の知人がイラストを担当して制作した紙芝居は、現在長崎市内の図書館で貸出しが可能。
大越 富子 (おおごし とみこ)
被爆者:田中竹一(父)、サザ子(母)

講話内容 >>
父、田中竹一さんと、母、サザ子さんの被爆体験を話す。 父は被爆当時44歳で、佐世保の海兵団に所属しており、がれきなどの撤去作業のために長崎市に入った。 被爆から12年後に、肝臓がんで亡くなる。 母は当時38歳で、9日、疎開先の時津村にて、原爆投下後に近くの国民学校へ運び込まれた被爆者の救護にあたった。
谷口 須賀子 (たにぐち すがこ)
被爆者:山本ハル(母)、和俊(父)

講話内容 >>
爆心地から約3.1キロの三川町で被爆した母と、爆心地から約2キロの八千代町で被爆した父の被爆体験を話す。 当時、母は、爆心地からわずか約1キロの竹の久保にある看護学校の寮で暮らしていたが、8月9日は三川町の実家にいたため助かった。前日、母は祖母と一緒に野菜を売りに行く約束をしていたが、9日になってどうしても行く気になれず断り、祖母は一人で出かけた。「そしたら何か土産を買ってくるね。」と言った言葉が祖母の最後の言葉となった。
野田 隆喜 (のだ たかよし)
被爆者:野田和良(父)

講話内容 >>
爆心地から1.3㎞の浦上町の自宅で被爆した父、野田和良さん(被爆当時15歳)の被爆体験を話す。家族5人が全員被爆し、祖父、叔父、叔母の3人が亡くなった。父は、当時13歳の叔父と、焼け野原に落ちていた「来たれ炭鉱飯塚、飯はある」とかいてあったチラシ頼りに、福岡県の飯塚へ。 その後も、人には言えない苦労と病による入退院の繰り返しだった。父からきちんと原爆の話を聴けたのは、被爆から50年後、父と長崎への里帰りのときだった。
近江 義則 (おおみ よしのり)
被爆者:近江 時義(父)

講話内容 >>
父、近江 時義さんの被爆体験を話す。父は当時18歳で、8月9日は、爆心地から約10キロの戸石村で防空壕堀りをしていた。 原爆投下後、爆心地から約500mの竹ノ久保町にある実家に急ぎ向かった。やっとの思いでたどり着いた家は瓦礫の山だった。瓦礫から這い出てきた祖父に会うことができたが、祖父は8月18日に容体が急変し亡くなった。 たった一発の原子爆弾で父の弟を除く全ての肉親を失ってしまった。 戦後の父の半生も、原爆に翻弄されるものだったが、父は懸命に生きることを身をもって教えてくれた人だった。

交流証言者プロフィール

白鳥 純子 (しらとり じゅんこ)
被爆者:吉田勝二

講話内容 >>
爆心地から約850mの場所で被爆した、吉田勝二さん(2010年ご逝去)の被爆体験を話す。 吉田さんは被爆当時13歳だった。 顔に大やけどを負い、何度も手術をおこなったが、右顔面にやけどの跡が残り、周囲の冷たい目に苦しんだ。
吉田 睦子 (よしだ むつこ)
被爆者:末永浩

講話内容 >>
入市被爆した末永浩さんの被爆体験を話す。 末永さんは被爆当時9歳で、8月9日は諫早に疎開しており、その後入市被爆した。 母と妹は長崎市内で被爆した。末永さんはその後教師となり、平和教育にも力を入れる。 末永さんは、(公財)長崎平和推進協会継承部会元・部会長。
松尾 蘭子 (まつお らんこ)
被爆者:山脇佳朗

講話内容 >>
爆心地から2.2kmの自宅で被爆した、山脇佳朗さんの被爆体験を話す。 山脇さんは被爆当時11歳で、父を捜しに、兄弟と三菱製鋼所へ行くも、父は死亡していた。 父の火葬は不完全で、つついた頭がい骨から脳が流れ出た。 父亡きあとの戦後の生活は大変であった。 山脇さんは以前、非核特使も務め、海外に向けて英語での講話も行っている。
松野 世菜 (まつの せいな)
被爆者:山脇佳朗

講話内容 >>
爆心地から2.2kmの自宅で被爆した、山脇佳朗さんの被爆体験を話す。 山脇さんは被爆当時11歳で、父を捜しに、兄弟と三菱製鋼所へ行くも、父は死亡していた。 父の火葬は不完全で、つついた頭がい骨から脳が流れ出た。 父亡きあとの戦後の生活は大変であった。 山脇さんは以前、非核特使も務め、海外に向けて英語での講話も行っている。
久家 江光子 (くが えみこ)
被爆者:田川博康

講話内容 >>
被爆地から3.3kmの疎開先で被爆した田川博康さんの被爆体験を話す。 田川さんは被爆当時12歳で、爆心地に近い竹の久保町で被爆した両親を探して原子野を歩いた。 負傷した父を救護所へ運び、手術してもらうも死亡し、外傷がなかった母もその後亡くなった。 2017年、自身の被爆体験を基にした紙芝居が、長崎市立三川中学校の協力で完成した。
牧島 果鈴 (まきしま かりん)
被爆者:田川博康

講話内容 >>
被爆地から3.3kmの疎開先で被爆した田川博康さんの被爆体験を話す。 田川さんは被爆当時12歳で、爆心地に近い竹の久保町で被爆した両親を探して原子野を歩いた。 負傷した父を救護所へ運び、手術してもらうも死亡し、外傷がなかった母もその後亡くなった。 2017年、自身の被爆体験を基にした紙芝居が、長崎市立三川中学校の協力で完成した。
山野 湧水 (やまの ゆうみ)
被爆者:池田道明

講話内容 >>
爆心地から700mの長崎医科大学附属医院で被爆した、池田道明さんの被爆体験を話す。 池田さんは被爆当時6歳で、金比羅山で一夜を明かし、翌日病院で母と再会した。 被爆直前まで一緒に遊んでいた、命の恩人でもある「しげちゃん」とは、池田氏が田舎に疎開したのを最後に消息不明で、その姿を追い求め続けている。
中村 浩二 (なかむら こうじ)
被爆者:伊達木信子

講話内容 >>
爆心地から1.4kmの茂里町で被爆した伊達木信子さんの被爆体験を話す。 伊達木さんは被爆当時15歳で、茂里町の兵器工場で動員作業中に被爆した。 防空壕、大学病院裏の広っぱ等をたどり、その日のうちに自宅へ帰りついた姿は、家族でも誰かわからない有様であった。 父は城山国民学校で被爆し、数日後に帰らぬ人となった。 被爆後も様々な差別に苦しんだ。
藤田 幸代 (ふじた ゆきよ)
被爆者:大庭義弘

講話内容 >>
入市被爆した大庭義弘さんの被爆体験を話す。 大庭さんは被爆当時5歳で、8月9日は喜々津村(現・諫早市)に疎開しており、その後両親とともに親戚を探すため長崎を訪れ、入市被爆した。 疎開前に住んでいた竹の久保の自宅は全壊した。大橋町の親戚一家は、その後数年間にわたり探すが、消息不明のまま。
中島 麗奈 (なかしま れな)
被爆者:伊達木信子

講話内容 >>
伊達木信子さんの被爆体験を話す。 伊達木さんは被爆当時15歳で、茂里町の兵器工場で動員作業中に被爆した。 防空壕、大学病院裏の広っぱ等をたどり、その日のうちに自宅へ帰りついた姿は、家族でも誰かわからない有様であった。 父は城山国民学校で被爆し、数日後に帰らぬ人となった。 被爆後も様々な差別に苦しんだ。
田平 由布子 (たびら ゆうこ)
被爆者:吉田勲

講話内容 >>
爆心地より3.9km離れた自宅で被爆した吉田勲さん(平成29年ご逝去)の被爆体験を話す。 吉田さんは被爆当時4歳で、祖母と防空壕へ避難する途中で唇上部を負傷した。 被爆から48年間の時を経て、被爆体験を語るようになった。 平成29年10月急逝。 ◆田平氏は、その後吉田氏を知るかたにも話を聞き、講話を完成させた。
山﨑 務 (やまさき つとむ)
被爆者:深堀讓治

講話内容 >>
爆心地から約3kmの長崎中学校で被爆した深堀譲治さんの被爆体験を話す。 深堀さんは被爆当時15歳で、長崎中学校で動員作業中に被爆した。 爆心地から約600mにあった自宅で母は黒焦げになり亡くなった。 また、弟・妹も自宅付近で亡くなっていた。 すぐ下の弟はかろうじて即死は免れたものの、8月17日、「兄ちゃん死ぬなよ」という言葉を残して亡くなった。
水谷 遥 (みずたに はるか)
被爆者:池田道明

講話内容 >>
爆心地から700mの長崎医科大学附属医院で被爆した、池田道明さんの被爆体験を話す。 池田さんは被爆当時6歳で、金比羅山で一夜を明かし、翌日病院で母と再会した。 被爆直前まで一緒に遊んでいた、命の恩人でもある「しげちゃん」とは、池田氏が田舎に疎開したのを最後に消息不明で、その姿を追い求め続けている。
杉本 伸一 (すぎもと しんいち)
被爆者:丸田和男

講話内容 >>
爆心地から1.3㎞の銭座町の自宅で被爆した丸田和男さんの被爆体験を話す。 丸田さんは被爆当時13歳で、倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。 母は亡くなり、県立瓊浦中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。 現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。
矢野 智佳 (やの ともか)
被爆者:丸田和男

講話内容 >>
爆心地から1.3㎞の銭座町の自宅で被爆した丸田和男さんの被爆体験を話す。 丸田さんは被爆当時13歳で、倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。 母は亡くなり、県立瓊浦中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。 現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。
廣瀬 美由紀 (ひろせ みゆき)
被爆者:山脇佳朗

講話内容 >>
爆心地から2.2kmの自宅で被爆した、山脇佳朗さんの被爆体験を話す。 山脇さんは被爆当時11歳で、父を捜しに、兄弟と三菱製鋼所へ行くも、父は死亡していた。 父の火葬は不完全で、つついた頭がい骨から脳が流れ出た。 父亡きあとの戦後の生活は大変であった。
坂本 薫 (さかもと かおる)
被爆者:丸田和男

講話内容 >>
爆心地から1.3㎞の銭座町の自宅で被爆した丸田和男さんの被爆体験を話す。 丸田さんは被爆当時13歳で、倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。 母は亡くなり、県立瓊浦中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。 現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。
野崎 秀人 (のざき ひでと)
被爆者:末永浩

講話内容 >>
入市被爆した末永浩さんの被爆体験を話す。 末永さんは被爆当時9歳で、8月9日は諫早に疎開しており、その後入市被爆した。 母と妹は長崎市内で被爆した。末永さんはその後教師となり、平和教育にも力を入れる。 末永さんは(公財)長崎平和推進協会継承部会元・部会長。
松山 咲 (まつやま さき)
被爆者:池田道明

講話内容 >>
爆心地から700mの長崎医科大学附属医院で被爆した、池田道明さんの被爆体験を話す。 池田さんは被爆当時6歳で、金比羅山で一夜を明かし、翌日病院で母と再会した。 被爆直前まで一緒に遊んでいた、命の恩人でもある「しげちゃん」とは、池田氏が田舎に疎開したのを最後に消息不明で、その姿を追い求め続けている。
近藤 記江 (こんどう のりえ)
被爆者:丸田和男

講話内容 >>
爆心地から1.3㎞の銭座町の自宅で被爆した丸田和男さんの被爆体験を話す。 丸田さんは被爆当時13歳で、倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。 母は亡くなり、県立瓊浦中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。 現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。
中村 幸博 (なかむら ゆきひろ)
被爆者:森田博滿

講話内容 >>
当時10歳、爆心地から1.8㎞の自宅で被爆。当番のため学校に出かけた帰り道、後ろで飛行機の轟音がした。振り返ると稲佐山の上に落下傘が見えた。その行方を兄と二人、目で追っていた。先輩が配給を知らせにきたので、父に知らせようと落下傘を見ながら玄関に入った瞬間、電気のスパークのようなオレンジ色の光と爆風に包まれ、家の中に5~6m吹き飛ばされ、気を失った。 「100分の1秒の命」あと一歩遅れていたら私の命は無かった。
原田 真美 (はらだ まみ)
被爆者:中村一俊

講話内容 >>
当時、山里国民学校6年生(11歳)。爆心地より1.5㎞の農家で被爆する。屋内にいたため、幸い怪我は免れたが、家の下敷きとなり、辛うじて脱出した。一足先に帰路についた母は途中で被爆、遂に死骸も見つからなかった。自宅は爆心地の近くであったため、弟達4人は爆死した。 私自身も現在まで、入院や体の変調に苦しんできた。 原爆の悲惨さ、戦争の愚かさを若い人に伝えたい。
山下 恵子 (やました けいこ)
被爆者:下平作江

講話内容 >>
爆心地より800mの防空壕で被爆。母と姉は黒こげになり、兄は3日後に黄色い汚物を吐きながら死にました。 私は髪が抜けハグキから血がでて体に斑点ができ苦しみました。二度とこのような苦しみを与えてはなりません。
石田 久美 (いしだ くみ)
被爆者:清野定廣

講話内容 >>
当時8歳、12㎞離れた深堀村の寺で遊んでいる時、爆風にあおられた。これは広島に落とされたピカドンと同じもので恐ろしいものだと解り、兵器工場に動員されていた20歳の姉が無事だったので、私、兄、妹の4人で佐賀県へ疎開した。 爆心地を通り道の尾駅まで歩いた時に見た、残虐極まりない死傷を受けた多くの人達の痛恨の叫びと、無傷だった姉が一週間後、放射能障害を発症して逝った無念な思いを語り続けたい。
吉田 睦子 (よしだ むつこ)
被爆者:下平作江

講話内容 >>
爆心地より800mの防空壕で被爆。母と姉は黒こげになり、兄は3日後に黄色い汚物を吐きながら死にました。 私は髪が抜けハグキから血がでて体に斑点ができ苦しみました。二度とこのような苦しみを与えてはなりません。
上妻 裕子 (こうづま ゆうこ)
被爆者:池田道明

講話内容 >>
爆心地から700mの長崎医科大学附属医院で被爆した、池田道明さんの被爆体験を話す。 池田さんは被爆当時6歳で、金比羅山で一夜を明かし、翌日病院で母と再会した。 被爆直前まで一緒に遊んでいた、命の恩人でもある「しげちゃん」とは、池田氏が田舎に疎開したのを最後に消息不明で、その姿を追い求め続けている。
河野 正二 (かわの しょうじ)
被爆者:田川博康

講話内容 >>
被爆地から3.3kmの疎開先で被爆した田川博康さんの被爆体験を話す。 田川さんは被爆当時12歳で、爆心地に近い竹の久保町で被爆した両親を探して原子野を歩いた。 負傷した父を救護所へ運び、手術してもらうも死亡し、外傷がなかった母もその後亡くなった。 2017年、自身の被爆体験を基にした紙芝居が、長崎市立三川中学校の協力で完成した。
三根 礼華 (みね あやか)
被爆者:田川博康

講話内容 >>
被爆地から3.3kmの疎開先で被爆した田川博康さんの被爆体験を話す。 田川さんは被爆当時12歳で、爆心地に近い竹の久保町で被爆した両親を探して原子野を歩いた。 負傷した父を救護所へ運び、手術してもらうも死亡し、外傷がなかった母もその後亡くなった。 2017年、自身の被爆体験を基にした紙芝居が、長崎市立三川中学校の協力で完成した。
調 仁美 (しらべ ひとみ)
被爆者:西山進

講話内容 >>
被爆地から4㎞離れた工場で被爆し、翌日、爆心地から約1.4㎞離れた大橋工場へ仲間を救援に向かった西山進さん(被爆当時17歳)の被爆体験を話す。 「救援隊と言ってもぼくたちにはどうすることもできなかった。8月10日の様子は今でも目に焼き付て離れません。」 西山さんは現在、福岡に住み漫画家として活躍されている。ご自身の被爆体験を紙芝居にしており、その一部を交えながら話す。
室井 栄子 (むろい えいこ)
被爆者:尾﨑正義

講話内容 >>
被爆地から約6㎞離れた屋外で作業中に被爆し、被爆地から約1㎞離れた竹ノ久保町にあった下宿先へ向かった尾﨑正義さん(被爆当時13歳)の被爆体験を話す。焼け野原、黒焦げになった馬、助けを求める人、やっとたどり着いた下宿先には火の手が迫っていた。 尾﨑さんは、室井氏の中学校2年生の時の担任で、美術の先生であり、現在は画家として活躍されている。講話で使用する、被爆当時の光景などを描いた絵は、尾﨑氏によるもの。
室井 栄子 (むろい えいこ)
被爆者:田中幸子

講話内容 >>
田中幸子さんと、そのご家族の被爆体験を話す。田中さんは11人家族で、自宅は爆心地から約600mの所にあった。原爆投下の瞬間、自宅に居た父と姉、工場に居た姉の3人が被爆。 田中さんを含む8人は疎開していたが、父と姉2人を探しに長崎へ行った母は12日に、その他7人は19日に、自宅付近で入市被爆した。
鈴田 健二 (すずた けんじ)
被爆者:築城昭平

講話内容 >>
爆心地から北側1.8kmの当時長崎師範学校(現西浦上中学校)の寮で被爆した築城昭平さんの被爆体験を話す。築城さんは当時18歳だった。 軍需工場へ学徒動員され、当日の夜勤にそなえ睡眠中に被爆。全身火傷を負ったが、長与まで徒歩で歩き、救護所で治療を受けたのち、探しに来た父親に家に連れ帰ってもらった。 被爆体験は自分の言葉でないと伝わらないと英語を勉強して海外にも発信している。
廣岡 胡美 (ひろおか くるみ)
被爆者:門隆

講話内容 >>
爆心地から約3.5キロの長崎市銅座町の橋のたもとで、おもちゃの飛行機を工作している時に被爆した門隆さんの被爆体験を話す。門さんは当時9歳だった。 一面に広がる強い光を見たかと思うと、強風に襲われた。探しに来た母と共に防空壕へ逃げる。父は大橋町の三菱兵器工場で爆死、兄は長崎商業学校で爆死した。 その悲しみを背負いながら、母、姉と共に3人で過ごす。
峯松 絢音 (みねまつ あやね)
被爆者:門隆

講話内容 >>
爆心地から約3.5キロの長崎市銅座町の橋のたもとで、おもちゃの飛行機を工作している時に被爆した門隆さんの被爆体験を話す。門さんは当時9歳だった。 一面に広がる強い光を見たかと思うと、強風に襲われた。探しに来た母と共に防空壕へ逃げる。父は大橋町の三菱兵器工場で爆死、兄は長崎商業学校で爆死した。 その悲しみを背負いながら、母、姉と共に3人で過ごす。
三根 礼華 (みね あやか)
被爆者:山田一美

講話内容 >>
国民学校6年生(12歳)の時,被爆した山田一美さんの体験を語る。 爆心地より2.3㎞の路上で突如、真夏の太陽より更に明るい閃光に包まれ、熱さに死を覚悟したが、幸い岩陰にいたため怪我もなく無事だった。 自宅近くの溝に祖母・叔母と家族3人で身を潜めながら黙々と、幽鬼のように歩いて行く被爆者の群れを見ていた。 原爆の無差別性、非人道性を知ってもらいたい。
原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、歴史に学んで、
核兵器のない恒久平和の世界を築くことを誓う。

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