氏 名  性 別   被爆時年齢  プロフィール
尾畑 正勝 27 私は当時27歳。三菱造船所幸町工場に勤務していた。爆心地より南に1.5qの地点で作業中だった。突然目の前に見た事もない光線がし、とっさに工場の床に腹ばいになると同時に爆発音がした。工場の屋根のスレート瓦が破壊し落下してきた為に背中を少しばかり怪我をした。
外に居た同僚は全身火傷し、3日後に死亡したと聞く。私も外に居たらどうなったかわからなかったと思う。工場内に居た為に助かったと思う。
吉山 秀子 22 平成20年1月31日、ご逝去されましたので、プロフィール内容は削除させていただきました。
心よりお悔やみ申し上げます。
谷口 恵美 22 爆心地より3qの三菱長崎造船所電気設計課で被爆(22歳)。家は全焼、母を捜す途中、爆心地より2.6q位にある永昌寺の前で雨が降り、ひどい雨だったので山門で雨宿りし、止んでから山の中腹にある墓で野宿する。10日朝、焼け跡で母と再会、夜になってから浦上の爆心地近くを通って道ノ尾駅まで歩き野宿して、朝一番の列車に乗り、長田の疎開地にやっと着く。その後髪が抜け、歯ぐきから血が出て、下痢が続いた。
三宅 レイ子 20 当時、城山国民学校の教師をしていたが原爆落下の日は稲佐町の自宅にいて負傷した。一瞬にして鉄筋3階建ての校舎は破壊しつくされ、28名の同僚、1400名の児童を亡くした。そのような大混乱の中で、授業再開は生き残った者の使命と考え活動を始めた。
笹尾 昭 18 平成20年7月25日、ご逝去されましたので、プロフィール内容は削除させていただきました。
心よりお悔やみ申し上げます。
吉田 孝子 18 平成20年6月23日、ご逝去されましたので、プロフィール内容は削除させていただきました。
心よりお悔やみ申し上げます。
和田 耕一 18 学徒動員で市内電車の運転手として勤務中、爆心地より3q地点で被爆。家屋の下敷きとなったが外傷はない。9日より14日まで、識別困難な同僚の火葬や救援、救護活動に携わる。戦後、同僚117名や、同時に被爆死された多数の乗客の追悼碑を、爆心地公園へ建立する。
室園 久信 18 爆心地から4.5q離れた港の入り口、三菱造船所太田尾工場で特殊潜航艇建造中、18歳で被爆。会社の命令で当日夜中、浦上の燃え盛る火を潜り抜け兵器製作所に行き、10日は終日負傷者を担架で道ノ尾駅の汽車に搬入。11〜12日は中心地方面で同僚家族の捜索救助、13日から死骸を積み重ねての野焼火葬に従事。8月末頃には下痢と歯茎や鼻からの出血で全身衰弱、故郷に帰り、医者から「ピカドン病」で死の宣告を受けました。
築城 昭平 18 当時長崎師範学校在学中。(18歳)軍需工場へ学徒動員され、爆心地から1.8kmの学校の寮で、当日の夜勤にそなえ睡眠中に被爆。全身火傷を負う。特に左腕と左足先は重傷だった。
川原 竹一 17 1945年3月10日東京大空襲を経験。同年8月9日11時2分、両親・弟妹自宅にて被爆。8月20日焦土化爆心地に入市。学徒動員で働いていた工場の無残に衝撃を受ける。旧制中学の担任教官宅跡をたずね歩く(被爆する17歳)。学生生活(東京にて)。長崎市内公立学校教員。長崎総合科学大学・附属高等学校講師(教員40年間)。同大平文研客員。編著『平和をもとめて』『大陸の叫び』共著『ハイネ研究』『長崎原爆資料館』ほか。
永野 悦子 16 1945年8月9日、学徒動員として勤務中に、16歳で被爆。自宅は全焼し、戸外にいた9歳の弟は、全身火傷のため、3日後に死亡。自宅で被爆した母と妹は原爆症に苦しみ、母は一命を取り留めたが、13歳の妹は苦しんだあげく、1ヶ月後に死亡。生き残った者たちの、怒り・悲しみ・淋しさを伝えたい。この目で見た原爆の恐怖、そして悲惨さを語ることによって、平和の尊さを訴え続けていきたいと思う。
恒成 正敏 16 16歳の当時、三菱兵器工場(爆心地より1.4q)で被爆。爆風で吹き飛ばされ、失神。頭に傷を負い、焦土と生き地獄をさまよい歩く。悲惨な体験を再び繰り返さないために、修学旅行生等に実相を語り、反戦反核の思いと命の重さを伝えている。釧路・藤沢・八尾などの都市に出かけ、平和の小さい種をまき、国外はニュージーランドの原爆展に参加。2004年には長崎市主催の平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を述べた。
谷口 稜曄 16 自転車に乗って郵便配達中に、爆心地より1.8qの路上で背後から熱線を浴び、背中全面を火傷、1年9ヶ月うつ伏せのまま、死線をさまよう。1949年3月20日病院を退院し、職場に復帰。1955年、いち早く被爆者の会の結成に参加。被爆体験の継承と、核兵器廃絶のため、世界中に出かけている。1986年までNTTに勤務。
現在(財)長崎平和推進協会会員
(財)長崎原爆被災者協議会会長
今田 斐男 16 勝山国民学校屋上で対空監視をしていた父は、9時頃空襲警報が解除されたので、自転車で松山町の檀家さんへ法要に出かけ、原爆で行方不明になりました。母は国民学校近くの米の配給所前で被爆し放射線を浴び、1979年8月15日に他界しました。1944年、中学3年で志願し陸軍航空通信学校に入校した私は、群馬県新田飛行場で長崎に新型爆弾が投下された事を聞きました。(著書「ひびけ平和の鐘」)
西田 清 16 当時長崎商業学校生徒(16歳)。爆心地から700mの長崎医科大学附属病院本館1階で被爆。爆風で吹き飛ばされ、鉄筋コンクリートの壁で頭部を打ち、意識不明になった。火災による熱風の中を必死になって裏山の金比羅山に逃げた。途中救護所で応急手当を受け帰宅したが、猛火に包まれた被爆の惨状を忘れることは出来ない。
ア田 昭夫 16 16歳のとき、爆心地から1.6qの銭座町で被爆し、上半身に大やけどを負った。このとき、急性原爆症を併発し、危篤状態になったが、奇跡的に助かった。
被爆以来、原爆後遺症で10数回入退院を繰り返し、今もなお通院治療を続けながら、被爆体験の継承活動を行っている。
両親も爆心地から1.5qの西町で被爆し、重傷を負った。母は被爆後、白内障で失明した。
内田 伯 16 被爆当時、旧制長崎県立瓊浦中学4年生で、学徒動員先の三菱兵器大橋工場で被爆した。原爆炸裂の瞬間、幾重にも黄色がかった光と衝撃波に襲われて、自らも重傷を負う。また不運にも、爆心地となった松山町に居た家族5人は、骨さえ残さず、燃えつきた。時は移り、1988年7月に米国で開かれた日米学生会議に招かれ、被爆の実相を訴えたが、そこで「テキサス州名誉市民」の証書を授与された。
廣瀬 方人 15 旧制中学4年生(当時15歳)、三菱重工長崎造船所に学徒動員中に被爆。爆心地から4.8kmの事務所で、両腕を負傷。
1952年から長崎で高校教師として勤務。1955年8月、長崎で行われた第2回原水禁世界大会以来、核兵器廃絶の運動と平和教育に取り組んできた。
松添 博 14 当時中学三年生、浦上の三菱製鋼所に学徒動員されていたが、その時に限って3.8km離れた自宅に帰っていた。裸で爆撃機(B29)を眺めていて被爆し火傷を負う。近くに避難して来た被爆者の惨状を見て記録にと、絵に描き残す。逝きし級友のために平和を訴え続けたい
深堀 讓治 14 1945年8月9日、原爆が投下されたとき母と中学1年、小学5年の弟2人、それに5歳の妹の4人が、爆心地から約600mのところで被爆し亡くなりました。
国の指導者の一方的なリードで一般国民は大切なことを知らされないまま、戦争に参加し敗戦へと導かれ、大きな犠牲を強いられました。国民は、常に国が暴走しないように、監視を続ける努力が必要です。
濱崎 均 14 1945(昭和20)年8月9日は、長崎県立長崎工業学校3年生で、爆心地から10qの香焼島の川南造船所に学徒動員で勤務中だった。午後、市内の自宅に帰り、翌10日早朝から兄を探しに爆心地に入った。兄は同じ学校の4年生で、8月9日は学校に居た。兄は死亡。骨になっていた。核兵器のない、戦争のない世界の実現を理想としている。元中学校教師。(財)長崎平和推進協会継承部会員。長崎の証言の会代表委員。
早崎 猪之助 14 爆心地より1.1キロメートル三菱兵器製作所大橋工場に勤務中、上司の指示で部品の修理をする別の技術ビルに移動していた時に被爆し、背にした厚い鉄筋コンクリートの柱が生死を分けた。柱が熱線と爆風を遮る壁となり、軽症で済んだのは奇跡的だった。重機はすべて建物の外に吹き飛ばされ、指示した上司は即死していた。32人中私を含めて2人だけが生き残った。原爆の怖さと平和の大切さを伝えたい。
森 幸男 14 平成22年3月17日、ご逝去されましたので、プロフィール内容は削除させていただきました。
心よりお悔やみ申し上げます。
吉田 勝二 13 平成22年4月1日、ご逝去されましたので、プロフィール内容は削除させていただきました。
心よりお悔やみ申し上げます。
丸田 和男 13 当時県立瓊浦中学校の1年生(13歳)。爆心地から1.3qの銭座町1丁目の自宅で被爆。倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。母死亡。中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。
渡邉 司 13 県立瓊浦中学校2年生(13歳)、学徒動員時。爆心地より1.6qの銭座町の自宅で待機中に被爆。倒壊した家屋から奇跡的に無傷で這い出し、母と学友ら5人を救出し、火の海の中を逃げ惑う。10日より廃墟の防空壕で、5日間地獄の生活。8月19日、疎開先の病院で「ピカドン病」と診断され、死を宣告されたが…。
現在は諸病と戦いながら、恒久平和を願って命のある限り語り続ける。
池田 早苗 12 母と郊外の農家へ買出しに行く途中、爆心地から2qの屋外で被爆し、軽い火傷を負う。
自宅(800m)で被爆した姉、妹、弟5人は8月19日までに次々と亡くなる。一番下の弟は原爆から一週間の8月16日に亡くなったが、母は寝込み、父も兄弟の看病で手が離せなかったので、私はこの自分の弟を一人で火葬した。このような悲惨なことがないように核兵器の廃絶と平和の尊さを訴えたい。
山脇 佳朗 11 爆心地から2.2qの自宅で被爆。翌日になっても帰って来ない父を迎えに工場へ行った。工場が爆心地のすぐ側とは知る由もなかった。
浦上川の川べりに人々が折り重なって死んでいた。どの遺体も真っ黒いゴム人形のようにふくれ、皮膚に触れるとペロリと剥けた。私たちは焼け残りの木片を拾い集め、爆死した父の遺体を焼いた。足首を舐めていく炎を見つめていたら、涙があふれた。11歳の夏。
松尾 幸子 11 国民学校5年生(11歳)の時、爆心地から1.3q離れた場所で被爆しました。
私は無傷でしたが、弟たちはケガや火傷を負いました。0.7q地点にあった家は跡形もなく焼けてしまい、姉(長女)の骨だけが出てきました。
倒壊した建物の下敷きになった父も28日に亡くなりました。兄2人、姉、兄嫁、叔母2人も亡くなり、兄2人、叔母1人はいまだに帰ってきません。
下平 作江 10 爆心地より800mの防空壕で被爆。母と姉は黒こげになり、兄は3日後に黄色い汚物を吐きながら死にました。私は髪が抜けハグキから血がでて体に斑点ができ苦しみました。二度とこのような同じ苦しみを与えてはならない。
末永 浩 9 人間と核兵器は共存できない。核兵器を廃絶しなければ、人類滅亡の可能性がある。母と妹二人は長崎市立山で被爆。後で母と妹の一人は死亡。兄と私は諫早に疎開していて、入市被爆。私は国民学校4年。著書「ナガサキから子供たちへ」。「原爆教師まっしぐら」。「私の原爆平和教育」(1〜16)。郵政職員から教師となり、平和教育に取り組む。アメリカで被爆を語り、中国の大学で日本語教師をしながら原爆と加害を話す。
中川 知昭 9 被爆の時9歳、伊良林国民学校の三年生の私は爆心地から3.3km地点の鳴滝町の自宅で被爆しました。飛来したB29爆撃機二機の内、一機が落としたパラシュートを見て、家の中に駆け込んだので、幸い怪我は無かった。四日後の八月十三日に父の爆死した浦上地区に、母と二人で訪れ、原子野を目撃しました。被爆後六十四年の歳月が流れた今日、「戦争や原爆の恐ろしさや悲惨さ」を被爆者は、語り継ぐ義務が、あると思います。
羽田 麗子 9 長崎市に原子爆弾が投下された時、私は国民学校の3年生でした。自宅は爆心地から2.6q離れた所に住んでいましたが、自宅と爆心地の間に山(336m)があったため、無傷の状態で助かりました。しかし翌日からその山を越えて来られた方々は想像を絶する状態で、今でもその時の状況が心の奥深く刻み込まれています。子どもたちに、平和と命の大切さを伝え続けたいと思っています。
出口 輝夫 9 当時山里国民学校3年(9歳)。爆心地から1.4q地点の自宅において被爆。家屋は全壊、頭部2ヶ所に裂傷を負い、次兄は1ヶ月後に原爆症により死亡。私は被爆体験と共に「何故原爆はつくられ、何故投下されたのか」、「原爆が使用されたらあなたや住んでいる街がどうなるか」など、絵や写真を使って分かりやすくお話します。戦後築き上げた民主主義社会と平和な時代を、若い皆さん達にしっかりと守ってほしいと願うからです。
太田 洋一
(休止中)
9 私の父は、私が国民学校三年生のとき、原爆投下中心地で、爆死しました。焼け焦げた足袋の縫いあとと、ズボンのポケットに残っていたハンカチの切れ端しに、母は、父の遺体であると確信したのでした。
核兵器の残酷さと、当時の少年の目から見た日本の状況、敗戦後の日本(米軍の長崎上陸、食料難など)のことを、話して見たいと思っています。最後にこれからの日本を託する若い人たちへのお願いをしたいと思います。
山川 剛 8 私は爆心地から約4qの地点で被爆しました。国民学校3年生で8歳でした。左の耳たぶを火で焼かれる熱さで防空壕に飛び込みました。小学校教師としての体験を生かし、将来を担う子どもたちに核兵器廃絶・いのちの尊さ・平和実現への希望を語り続けたいと思います。
森口 貢 8 1945年7月末から8月初め、家近くの造船所が激しい爆撃を受けた。避難した防空壕近くでも爆発した。ここは危ないとして6年生の姉と1年の弟と3年だった私、子ども3人を母は連れて、8月4日佐賀の田舎に疎開した。5日後原爆が投下された。父の工場は消失し、姉兄は学徒動員中だったが、奇跡的に生き延び、引き返した母と共に私達の所に戻ってきた。20日爆心地を抜けて長崎に戻った。戦争は本当に怖い。平和は尊い。
奥村 アヤ子 8 爆心地に近い城山町(500m)で被爆。一瞬にして9人の家族は引き裂かれ、私は一人ぼっちになってしまいました。このような悲しさと苦しさを次代を担う子どもたちに与えてはならない。そのために核兵器廃絶を願い、訴えています。
計屋 道夫 8 爆心地から3.8q離れた十人町に住んでいて、佐古国民学校の2年生の時、自宅で被爆しました。昭和20年8月9日、前日より友人と浦上川に泳ぎに行く約束をしていたが、当日の朝、親から「学校の宿題をしてから行け」と厳しく言われ、自宅で勉強中、光と爆風を受け、母と兄、私の3名がガラスの破片、家具の倒壊により傷を受けたが、大事なかった。友人は行方不明になった。近所の家は半壊、県庁が三日三晩燃えたのを憶えている。
安井 幸子 6 爆心地より900mの自宅前で6才の時被爆。熱線・放射能・爆風の恐怖と苦しみの中で4人の兄弟全てを亡くした。被爆の実相を知り平和の尊さを心に刻んで下さい。
原田 美智子 6 私は6歳の時、爆心地から4qの屋外で被爆。爆風により割れたガラスで負傷しました。街全体が燃えていく様子が脳裏に焼きついています。祖父は被爆して3年後ガンで死亡。父は爆心地地帯を通り、残留放射線を浴び、原爆症で死亡。母は放射性大腸炎で死亡。母の胎内で被爆した弟は3歳で死亡。私は13年間被爆者の健康診断に携わる仕事をし、放射能障害で苦しんでいる被爆者を見て来ました。平和な世の中を願って、原爆の悲惨さを伝えています。
八木 道子 6 爆心地から3.3qの鳴滝町で被爆、当時小学1年生(6歳)。家には兄姉弟の5人だけだった。
一瞬にして聞こえなくなった蝉の声、異様な空の色、やけどを負った身体に湧く無数のうじ虫と異臭は、今もはっきり記憶にある。
最後に勤務した城山小学校では、1400名余の児童と先生方が命を失くした。
「戦争は最大の差別」という。平和とはどういうことをいうのか、考えていきたい。
池田 道明 6 私は国民学校1年生の時、長崎大学付属病院で被爆。火炎の中、坂本町から穴弘法さんを経て金毘羅山の高射砲陣地まで逃げ延びそこで1泊。翌10日朝、勝山国民学校へ下り、小川町、駅前、銭座町、岩川町から大学病院へと辿り着き母と再会という行程の中で、眼にし耳にした様々な事を思いおこす時、斯様な惨劇を繰り返してはならない。この願いを次世代へ語り継ぐ事こそ、九死に一生を得た私に課せられた使命だと思っています。
城臺 美彌子 6 当時6歳。爆心地より2.4q離れた山陰の立山町で被爆した。自宅内に居た事で外傷もなく、落ち込んだ床下から助け出された。その後、金比羅山中腹にあった防空壕で数日過ごし、旧市内が真っ赤に焼けていくのを見た。翌日、敵機が頭上をぐるぐると低空飛行し、恐ろしい記憶として残っているが、後日、被爆後の長崎を偵察にきたと知る。教職在職中、戦争や原爆について充分に伝えられなかったので、今「長崎を最後の被爆地に」と語っている。
小峰 秀孝 4 当時4歳8ヶ月、爆心地より1.5kmの自宅近くの畑で被爆、両手、両足、腹を火傷し足は3回手術を受ける。 
「戦争や原爆の恐ろしさを次の世代に伝えていくことが被爆者の役目」と現在語り部として活動している。

|-:一般・団体(学校等)申込
|-:代理人(店)用 申込
財団法人 長崎平和推進協会
〒852-8117 長崎市平野町7番8号
Tel.095-844-9922
Fax.095-844-9961
原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、歴史に学んで、
核兵器のない恒久平和の世界を築くことを誓う。

Copyright(C) 2007 Nagasaki Foundation For the promotion of peace.